◆両幡の奇瑞
法然上人は久米の押領使(おうりょうし)漆間時国(うるまときくに) 夫婦の一子として誕生され、上人の誕生時には幾多の伝説があるが母の秦氏の懐妊について、子なきを嘆いて夫婦こころひとつにして仏神に祈り申すに、秦氏夢に剃刀を飲むと見てすなわち懐妊す。
時国がいわく、「汝がはらめるところ、さだめてこれ男子にして一朝の戒師たるべし」と。秦氏そのこころ柔和にして身に苦痛なし、かたく酒肉五辛をたちて、三宝に帰する心深かりけり。」 と上人の伝記である四十八巻伝のなかに記されている。
▲法然上人絵図【誕生寺蔵】 御両親は子供が授かるようにと北山神社と本山寺の神仏に祈願されたと伝わる
この文面からも、時国夫婦は実に信仰厚い生活で あった事がうかがわれる。 美作という所は、その当時より特に真言、天台の寺院が 多い所であった。時国の妻秦氏の弟である観覚得業は那岐山の天台宗、菩提寺の住職であった。 時国は秦氏を娶ることにより、義弟観覚が漆間屋敷にたえずおとずれ 仏法の話をきくことがしばしばであった。
▲絵図に描かれる北山神社
こういったことで時国夫妻はしだいに仏教に帰依されて ゆかれたのであろう。 妻秦氏の剃刀を飲む夢、剃刀すなわち得度を意味するもので、 やがて生まれてくる子は出家すると予言しているのである。また夫時国も「一朝の戒師たるべし」とよろこばれたことは、 ここに普通の武士とは違った一面がうかがわれる。長承2年(1133)4月7日に出生したのが、法然上人であって、幼名を勢至丸と名づけられた。
◆勢至丸(のちの法然上人)誕生
▲法然上人絵図【誕生寺蔵】 両幡の奇瑞が描かれている
出生の時、邸宅の西の方に二またの椋の木があり、その木ずえに白い幡が二流れかかり、美しい鈴の音が天にひびいたと言われ、七日を経て流れ去ったという奇瑞が語られている。偉人の出生の際にはいろいろな奇瑞の話があるが、法然上人もこの「両幡の椋」の伝説があるよう、将来世を担う指導者となる方であることを表しているのであろう。
誕生寺第三十二世の徳定和上作の謡曲「誕生椋」には 「いま上人の出胎に 二幡のふりしは、それは浄土門の元祖として、二尊二教の旗じるし聖浄二門の選択をなし給はんの前兆かと・・」解釈している。法然上人の弟子、熊谷蓮生がのちにこの地におとずれ、上人の出生の奇瑞の話を村人に聞き作ったという歌が
両幡の天降ります 椋の木は 世々に朽ちせぬ 法の師の跡
法然上人二十五霊場といわれる遺跡があるが、それは誕生寺が第一番にはじまり 二十五番が浄土宗総本山知恩院で終わる。その第一番札所誕生寺の御詠歌として、この歌は今もなお詠唱されている。勢至丸という幼名は勢至菩薩の名をいただいたもので、その時代、貴族の勢力が弱まり武士が力をつけ、修羅化されていく戦乱の世に、菩薩のように賢く、正しく生きてほしいという親の願いが託されていたといえよう。このような信仰厚い家庭で育ち、勢至丸はその名の通り実に賢く、のちに「智慧第一の法然房」と呼ばれた上人の幼児期にふさわしい
成長ぶりであった。また、ややもすれば西の方へ向いて合掌することも、しばしばと伝記は伝えている。 しかし、武士の子だけに武道も家来達におそわり、特に弓矢を好み、並ならぬ上達で人々は「小矢児」(こやちご)と呼んだと言われる。この様な幸福の絶頂にあった、漆間一族に、勢至丸にやがて人生を転換するような不幸がおとずれるとは、誰が予期したであろう。
◆時国、夜襲で非業の死をとげる
勢至丸9歳の時であった。保延7年(1141)春3月18日、 この久米南条稲岡の庄となり弓削に住む預所(あずかりどころ)の 明石源内武者定明(あかしのげんないむしゃさだあきら)の軍勢の夜襲であった。
この地方の住民達は預所の役にあった定明より徳の高い時国を慕うものが多く、それを妬んだ定明は遂に漆間家に夜討ちをかけたと言われる。
また一説には、それぞれの自分の支配下にある田圃への引き水による争いがあった、ということも考えられるのである。それにしてもこの夜討ちは全く不意のことであり、時国はこのために慮の死を遂げるのである。その時の様子を『四十八巻伝』では、
保延七年の春時国を夜討ちにす。この子時に九歳なり。逃げ隠れて物のひまより見たまふに
定明庭にありて矢をはげて立てりければ、小矢をもちてこれを射る。定明が目の間に立ちにけり。
この傷隠れなくて、事現はれぬべかりければ、定明遂電して長く当荘に入らず。
それよりこれを小矢児(こやちご)と名づく。見聞の諸人 感嘆せずといふ事なし。
戦いのさなか、勢至丸は夜討ちの指揮をしている敵将定明に小弓を放し、その矢は定明の右目を射ち、射たれた定明は輩下とともに引きあげた。
しかし、勢至丸の父時国は深手をうけ、遂に再び立つことあたわず、その臨終に一子勢至丸を枕元に呼び、
「汝更に会稽(かいけい)の恥を思い敵人(あたひと)を恨むる事なかれ。
これひとへに先世の宿業なり。 若し遺恨を結ばば、そのあた世世に尽き難かるべし。
しかじ早く俗をのがれ家をいでて、わが菩提をとぶらひ 自らが解脱を求めんには。」(『四十八巻伝』)
と言ひて、端座して西に向ひ、合掌して仏を念じ、ねぶるがごとくして 息絶えにけり。
▲法然上人絵図【誕生寺蔵】 左下に描かれているのが弓矢をもった法然上人
◆仇討ちを戒め、出家の道へ
わが子、勢至丸に定明を仇として追うことを戒め、卓然とした出家の人生指針を与えた時国の心境は まこと偉大なる、仏教信仰者であり、菩薩道そのものであった。
この父の遺言あって、やがて勢至丸は出家し浄土門の開祖 法然上人となるのであった。美作の大豪族のあととりである一子勢至丸その子に 出家さすということは、家は断絶である。
本来特に名門といわれる家が絶えるということは、 その時代においては最大の屈辱といえよう。 おそらくこの家に仕えていた家来達にとっても 時国の遺言は思いもよらぬ絶望的なものであったにちがいない。敵定明に対する恨みをすて、一子勢至丸に仏道を歩むことをすすめ命終えたる時国、43歳であった。
「うけがたき人身(にんじん)をうけて、あいがたき本願にあいて
おこしがたき道心(どうしん)を発(おこ)して
はなれがたき輪廻の里をはなれて 生まれがたき浄土に往生せん事、悦びの中の悦びなり。
」(法然上人ご法話「一紙小消息」より)
人間が人間として、この世に生を受けることそのものが 不思議なことである。 またその人間の中で「仏法」との出逢はほんの一部の人である。 私達人間は、尊い人の身を受けながら不平不満を言って日々を過ごし、
欲の為にだけ生きている。 しかし、この世、娑婆界は絶対的な所ではない仮の世なのである。財力、権力、名声すべて夢、幻のものである。法然上人の父時国は「仏教」に出会うことにより
これら世間の習わしを悟ったのである。
そして、仏教信仰の真実の道を生きようとされたのである。 生きられたのである。そこに万民救済の法然上人が生まれ、 この父あっての上人であり、念仏門浄土宗が誕生したといえる。
父母の眠る地、誕生寺 父を失った勢至丸は、叔父観覚得業の菩提寺に入る。 岡山県と鳥取県の県境にある那岐山の中腹に位置し、当時七堂伽藍をほこった天台宗の名刹であった。
法然上人初学の地で現在浄土宗の史跡として特別霊場である 観覚は勢至丸の才覚が凡人でないことを知り、京都比叡山行きを勧め、15歳に成長した勢至丸は(13歳説もある)生地稲岡の庄に戻り母と別れ、京に旅だった。久安3年(1147)2月のことであった。母・秦氏にとって、夫・時国を失い、たった一人子である勢至丸を今また遠く都の彼方にやることは
耐えがたい悲しみである。 しかし、この子をこの地に留めることは、夫・時国の遺志に背くことにもなる。つらく悲しいことであるが、我が子の比叡山行きを承知したのであった。
かたみとて はかなき親の とどめてし
この別れさえ またいかにせん(母秦氏詠)
母子が恩愛の絆を絶ちきって愛別された年の秋、母秦氏は37歳の若き身で病没された。 かくして貴族仏教を庶民仏教として、鎌倉仏教の改革者法然上人の
出現は、父母の温かい育みの中に成長され、 また絶えがたきを耐え真実の道を指示された、この両親の仏教信仰にあったといえよう。父・時国、母・秦氏が今もなお静かに眠る聖地こそ、美作の国、誕生寺なのである。
流れも清き吉水の そのみな上や美作や 久米の皿山さらさらと
詣でて仰ぐ法の師のあと ああ尊しの誕生寺
法然上人御両親法号
父・時国公 菩提院殿源誉時国西行大居士 保延7年 3月19日寂 行年43歳
母・秦氏君 解脱院殿空誉秦氏妙海大法尼 久安3年 11月12日寂 行年37歳