◆誕生寺御本尊(法然上人43歳 「立教開宗」の御影)
法然上人43歳「立教開宗の御姿」 右手には「未不蓮華(みぶれんげ)」を持っているのが特徴 法然上人が43歳の時、亡き父母のために自ら刻んだ御影から「自刻御影(じこくみえい)」の別名で呼ばれる。
◆誕生寺略縁起(32世・漆間德定和上作)
恭しく惟れば、當山は畏くも人皇七十五代、崇徳院の御宇、長承二年四月七日、 元祖圓光明照大師法然上人御誕生あらせ給ひし露地にして、大師御両親尊廟の現存せる無比の遺跡なり。 抑も保延七年花散る春の夕べ、あはれ御父時國卿、源内武者定明がために、遣恨の双に発れんとして『汝會稽の恥を思ひ敵人を恨むること勿れ、 是れ偏へに先世の宿業なり』と、いしくも御遺言ありて、途に端座合掌して息絶え給ひしは、此所なり。 後久安三年残んの雪に肌まだ寒き二月十二日の朝御母秦氏君、
かたみとて はかなきおやのとどめてし この別れさへまた いかにせん
とかなしくも御述懐あらせ給ひて、手馴れの御鏡にむかひつ、王くしけ母ひとり子ひとりのふたりが最後の生顔をうつしまして、憂たてや、 さらぬ、別れをかねたる、生別れをなし給ひしも此所なり。年は三五の春霞比叡の御山にのぼりましてより後、いくその年月を経て、 承安五年春三月四十三歳にして始めて專修念佛の浮土宗をひらき給ひし時、今しもし世に父母のおはしまさんには、先づ作州に下向して、 此の御法を傳へ奉るべきものを、『樹静かならんどすれば風やます、子養はんとすれば親いまざす』 といひけん昔の言の葉を今この法然が身の上に見るこそ、さても味氣なの世のさまかなと、なげかせ給ひつつ、これせめてもの、 おもびやひなる追孝の料にもとて躬から勿体なくも、御像を彫ませ給ひ一刀一念彫みては唱へ、唱へては彫みつつ、遽に四十三歳の、等身の御像を四十八たびまで御開眼ましまして、之れを御身代りに故郷へつかはし、御墓参になぞらへ、 且つは有縁にも結縁せばやと思召しけれども、其御願は唯あらましにて、空しく年月を過ごさせ給ふ、ここ熊谷の次郎丹治直實は建久四年、大師御年六十一の時入道して御弟子となりしかば、或時彼の故郷の御物語りありければ、願ぐば、 某にその御役を仰せつけさせ給へかしとてやがて御像を負ひ奉り、都を後にしかすがに老の旅路のいそがれて、あゆみは西にむかふまち、唱へてやまぬ山崎や、空にぞ仰ぐたかつきの、月の光りに照されて、心の内の茨木の、とげとげしさを恥ぢらひつ、早やも浪華の津をすぎて、 甲山さへ見えそめたれば、鎧武者の昔の心もかへる熊谷入道、こし方行末とりとりに、思ひをくだく須磨の波、ゆくての方に鵯越え、一の谷など見えてけり、あはれ在家のむかしをおもへば、此処にて平家の公達敦盛公を討し身の、今叉出家の身とはなりて、 同じ濱邊をさすらふる、有爲転攣の世相かな、
昔の よろいにかはる 紙子には かぜのいるやも 通らざりけり
と詠じつつ無明長夜も明石潟、有年高砂と播磨路を、はや杉坂も行き行きて、久米の皿山いや更に、思ひ慕ひて稲岡の、 この里にこそ入りにけれ、さてなん昔の御舘を佛閣に引き直し誕生寺と號したり、今の寺即ちこれなり。 さればこれより諸人の帰依日に盛え月に増し、念佛の聲は四海に満ち、受教の輩は中外に溢れ、二幡の椋の木は彌々茂り、 片目川の流れは増々清くして殿堂甍を並べ、棲閣軒を交はして、法燈長へに輝く。哀れ吉水の流れを掬める輩は、 大師の寳前に脆き御両親の尊廟に額つきて、以て無窮の慈恩に答へ、二世の勝縁を祈り給はんことを、勧めまいらすものなり。
◆阿弥陀如来像(阿弥陀堂)
西方極楽浄土を建て、そこに住する他方仏。西方極楽浄土の教主。(弥陀)浄土教の教主。浄土宗をはじめとする浄土教諸宗において本尊とされる仏。阿弥陀如来、無量光仏、無量寿仏ともいう。 阿弥陀仏の原語については、amita(甘露・不死)を想定する説もあるが、実際にサンスクリット本に現れるのは、amitaabha(もしくはamitaprab-ha)amitaayusの二つである。amitaは無量、bha(prabha)は光明、amitaayusは寿命の意であるので、それぞれ「無量光仏」「無量寿仏」と訳される。 阿弥陀仏の呼称としては、初期〈無量寿経〉では「阿弥陀仏」のみ、『無量寿経』では「無量寿仏」のみが使用され、『阿弥陀経』では「阿弥陀仏」、『観経』では「阿弥陀仏」「無量寿仏」、サンスクリット本〈無量寿経〉ではamitaabha、サンスクリット本〈阿弥陀経〉ではamitaayusが主として用いられている。
◆聖観音像(お七観音)
現在、中国三十三観音特別霊場としての聖観音(慈覚大師作)は、元禄12年(1699)当山第十五世通誉上人が、当山御本尊を江戸回向院、増上寺など出開帳の際、八百屋お七の遺族が振袖等を上人に渡され、お七供養を依頼した。 上人はそれらを作州に持ち帰り当山のこの観音菩薩前にて、お七の菩提をねんごろに供養されるとともに、再びお七のような哀れなことがない様にと、「もし何か切実なる悩み、苦しみ、願望を持つ者あれば、その願いを必ず成就させてやってほしい」と、祈願されたのであった。 以後、大願成就の「お七観音」として信仰をあつめている。当山の観音菩薩の目を静かに拝する時、衆生の心を見透かす様な霊験あらたかな不思議さを秘めている。 ※本堂には、お七の振袖と位牌が祀られている。
◆毘沙門天尊(毘沙門堂)
永禄12年(1569)に、誕生寺七世光天上人が、御影堂(本堂)を再建した時、大和信貴山から守護神として勧請したものとされている。寛政年間(1789~1801)盗賊がこの木造を盗み出し、売却した。入手した浪速津の商人に毎夜不思議な事が起こった。この商人の夢に現れ、「早く我を作州栃社山に奉還されよ」と霊告したという。驚いた商人は誕生寺に戻した。 その後この商人は大福徳に恵まれ、御礼参りの際に誕生寺に多額の寄付をしたという。それ以来、誕生寺の福徳の神として尊崇されている。
◆守護大仏(境内・観音堂横)
天正六年(1578年)に、岡山城主宇喜多直家の軍勢に襲撃され、御影堂が焼け落ちた。
そのような法難が二度と起こらないように、延享二年(1745年)に誕生寺守護仏として守護大仏が開眼供養された。
作者は梵鐘職人の名人、大谷相模掾藤原正次である。
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