稲岡の庄の母のもとに戻る際、距離があったため、那岐の菩提寺の公孫樹の木を杖にしたとされる。勢至丸15才の旅立ちの時、地面に挿して比叡山に出発した。その際、公孫樹の杖を逆さ挿したため、枝が上から地面を這うようにつづいている。
参拝者が御影堂(本堂)を拝する時、棟の中央に置かれている「宝珠」は、まさに西方浄土の位置。人生で求めるべきところの真の宝であります「極楽浄土」の位置を意味し、この宝珠
(浄土)を心に留め人生を力強く生き抜くのです。
母、秦氏の涙のあとが残る手鏡。
我が子、勢至丸(法然上人)との別れを悲しまれた母の涙のあとが残っている秦氏君・手慣れの銅鏡である。 秦氏君の涙が流れ落ちた後、人の顔を映さなくなったと伝わっている。
法難を予告した石仏。
天正6年、当時の住職であった深誉上人は、片目川より御本尊のお姿に似た光る大師(法然上人)の石像を発見、手にしたところ、光は消え、頭は下がったとされる。その姿から当寺に何か異変が起こると感じ、御本尊を産湯の井戸に沈め隠された。その直後、宇喜多一門の襲撃により御影堂は破壊されたが、幸い御本尊は災難を免れ助かった。
法然上人のお顔だけは焼けなかった文楽人形。
大正15年11月27日の夜、人形芝居の千秋楽の日、浪速の文楽座の大火で、総て焼失した中で不思議にも法然上人の人形の顔の部分だけが焼ける事なく神々しく残っていた。文楽座ではそれ以降、「法然上人恵月影」の人形芝居を上演しなくなったのである。
法然上人の御影跡が残る椋の真木。
法然上人御誕生の際、二つの白幡が飛び来て椋の枝に掛かった。その初代の椋が枯れた時、真木より上人のお姿が昇天したと云う。その跡影。
法然上人の肌の温かさを保ちつづけているれん木。
15才の勢至丸が比叡山に旅立つ際、身体を暖めるために母に与えた、孝養の銀杏れん木。法然上人自らの肌の温かさを保っていると云う。